我が街堺市に「ピラミッド」があるんです!
土塔てなに?
土と瓦で築かれた大野寺の仏塔で、寺の五重塔みたいなものです。
寺にはふつう木造の塔がありますが、この土塔は土の塔であり、材料が違うだけという見解です。
ですのでエジプトのピラミッドのように、お墓ではありません。
発掘調査で、一辺53,1m(180尺)、高さ8,6m以上ある四角錐の頂部をカットしたような形であったことがわかりました。
頂部には、八角形の木造建物があり、陶製の相輪があったと考えられています。
建物の形状は、法隆寺夢殿や栄山寺八角堂、室生寺五重塔を参考にしています。
誰がいつ造った?
奈良時代の高僧行基(668年~749年)が、727年に起工したとあります。
鎌倉時代の『行基菩薩薩行状絵伝』にも、本堂や門とともに「十三重土塔」が描かれています。
数えてみると、13段の階段状になっています。
普段は入れませんが、一般公開の日に登ることができました。
孫と孫の友達を下から撮影しました。
土塔の盛土工法
土塔はすべて盛り土でつくられています。
まず、地面を平らに整地し、各層の輪郭となる位置にタテ30cm、ヨコ20cm、厚さ10cm程の大きさの粘土の塊を並べます。
粘土の塊をさらに積み重ねて枠をつくり、その中に土を詰め固めながら盛り上げていきます。
上層へはさらに粘土の塊と土を盛り上げるという作業を繰り返していきます。
全面に約60,000枚もの瓦が葺かれていました。また、垂直面にも瓦を立てて、風雨から盛り土の崩壊を防いでいたようです。
瓦の年代からは、室町時代まで瓦葺きの補修が行われていたことがわかるそうです。
土塔からは、人名などを刻んだ瓦が1,250点出土していて、行基とともに土塔を建立した「知識」と呼ばれる人々の名前と考えられます。
瓦は近くの窯で焼いていたようです。窯跡が発見されています。
行基の活動
僧行基は、堺の家原寺(えばらじ)で生まれ、奈良東大寺の大仏建立を指揮した人物です。僧職が国家で管理されていた時代に、民衆の中に入り、そこに生きる人の救済をめざしました。
行基の活動の基本には、社会的に他の人のために良い事を行うことで自分も幸せになれるという考え方があります。
行基は布教と並行して生活の基盤となる多くのインフラ整備を行いました。
土地開発ひいては豊穣に結びつく水資源の確保・灌漑施設の造営・修築や、道路建設、港の整備、布施屋の建築などを数多く手掛けています。
これらの社会事業は、目の前で苦しんでいる人たちを具体的に救う方法でした。
行基と行動を共にした人は、教えに師事するとともにその社会事業に従事し、技術や労力を提供しています。
民衆とともにあった行基の存在は、国家をも動かし、やがて奈良東大寺の大仏建立につながります。
私の堺ブログ
行基が残した偉業
奈良時代から飛鳥時代にかけて活動した日本の仏教僧で、朝廷から、民衆に直接仏教の布教することを禁止されていました。
行基はその禁を破って、広く民衆に仏教の教えを説きました。
同時に困窮者の救済や多くの社会事業を指導しました。
布施屋(人々の救済施設)9カ所、道場や寺院49院、ため池15溜、溝と堀9筋、架橋9カ所を各地に整備しました。
朝廷からの弾圧をはねのけ、民衆から圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境をはねのけました。
後に、聖武天皇より大僧正(日本初)の任を受け、奈良東大寺の建立の責任者となりました。
↓ 鑑真(中国唐の僧、後に帰化)と間違わないようにね。
土塔へのアクセス
[http:]
さいごに
私は地元愛が強いので、ついでに堺市出身の偉人を紹介させていただきます。
・千利休(茶人)・与謝野晶子(歌人・作家・思想家・高校の先輩)・行基(仏教僧)
・坂田三吉(将棋棋士)・河口慧海(僧・仏教学者・探検家)
芸能人や政治家などの輩出ではなく、歴史的偉人の出身地だというのは地元民にとって誇りとなります。
土塔に登ってみて、そして、色んな資料をボランティアの方からいただき読みました。
行基がどれほど民衆を結集させるリーダーシップがあったか、その偉業の力を知ることができました。
エジプトのピラミッドに登ったことがありますが(観光客が登れる所まで)、当時の行基は、ピラミッドの存在自体を知らなかったことでしょう。
奈良時代に、これほど広大で見事な正四角錐の土塔が造られ、それが身近な所に残されているなんて感動的でした。
私の別ブログ 堺はいいな「サカイーナ」